「こうのとりのゆりかご」に匿名で預けられ18歳になった今、実名で語る言葉

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僕は「こうのとりのゆりかご」に預けられました。18歳になった今、その思いを告白。

僕は「こうのとりのゆりかご」に預けられた子どもです。

そう語るのは熊本市に住む18歳の青年、宮津航一さん。
当時、推定3歳ほどの幼児の年齢で「こうのとりのゆりかご」(通称:赤ちゃんポスト)に預けられていました。その後、里親に迎えられ元気に育ち、2021年には法律上正式に養子縁組として宮津夫妻の子となりました。

これを機に、これまであまり世間には話してこなかった「こうのとりのゆりかご」について語る事を決意しました。それも匿名ではなく、宮津航一として。

その様子を取材した動画がYouTubeにアップされています。
どのような生き方をしてきたか、今は何を考えどう感じているのか、これまで知ることさえ難しかった「こうのとりのゆりかご」の事実を知る事ができます。

記事の最後に動画を載せていますので、興味がある方は最後まで読んでください。
また、当時さまざまなバッシングを浴びながらも、1人でも多くの命を救うために「こうのとりのゆりかご」を設置した、蓮田太二(はすだたいじ)氏の著書もぜひ読んでみてください。

賛否両論の意見があるとは思いますが、1人でも多くの人に関心をもってもらい、まずは現状を知ることが大切です。

宮津航一さんについて

誰に連れてこられたのか、いつ誰から生まれたのか、身元や出生に関わる情報は一切残されていませんでした。

推定ではおよそ3歳ほどの幼児、当時の看護師の記録にはこう書かれていました。

「ゆりかごの上に座った状態できょとんとした様子。表情はおだやか、時折笑顔を見せている。人見知りをしない、話しかけるとよく答える。けれどまだ言葉は不明瞭。自分で名前を言うことができた。」

それから児童相談所に預けられ、当時の熊本市長が「航一」と名付けました。
その後、市内でお好み焼き店を営んでいた宮津夫婦の里子に。5人の子育てを終え、初めて迎える子どもでした。

元気にすくすく育つ中、航一さんは小学校で自分の生い立ちについて調べまとめる時間がありました。しかし、航一さんには小さい頃の思い出がなく悲しさを抱えることに。

そんなある日、航一さんを「こうのとりのゆりかご」に預けたという人があらわれました。
話を聞く産んだ母親の親戚とのことで、預ける時に受け取るはずの「お父さんへ お母さんへ」手紙も持っていました。母親については、ゆりかごに預けられた時には交通事故で亡くなっていたそうです。産んでから数ヶ月のことでした。
しかし、これまで知りたくても全くわからなかった出自のことや、母親の写真も手に入れる事ができました。

「写真、服、手紙。何か一つでも残してあげてほしい。預ける人たちにはそう思う。」と航一さんは切実な思いを語ります。

航一さんは現在、福祉や政治の分野に興味を持っているという。
法整備や支援体制が十分でない現状に、自分に何かできないかと考え始めています。

ゆりかごに預けられた自分だからこそ、やらなければならない事がある。
ゆりかごに預けられたという事実があるにしても、そのあと普通に社会で生きていける。
他に預けられた子どもたちにも、自分の今の姿を見せていくことで励みになる。

また、育児放棄で子どもが餓死したというニュースをきっかけに助けたいという気持ちが強くなり、料理はほとんどやったことありませんでしたが「こども食堂」を自分で計画して始めました。
Instagram ふるさと元気子ども食堂 (熊本県熊本市)

このようにこれまでの生き方を話す一方で、里親家庭で育ち18歳に養子縁組をしたという表面的な事実しかまだ言えないとも話します。
その背景には、赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」の存在が世間では賛否両論あることが大きな理由の一つです。赤ちゃんポストの創設は当時から大きなバッシングがあり、今も民間の慈恵病院にしかない事がそのことの大きさを物語っています。

「今の生活は十分に幸せであり、ゆりかごを通して今があるので預けられてよかったと思う。」

走ることが大好きだった少年は、この春に高校を卒業して大学へと進学をしました。決意を胸に、旅立ちの時の向こう側を見つめています。

航一さんは今後も自分の名を明かし、「ゆりかご」について語っていくと話します。

こうのとりのゆりかごについて

「こうのとりのゆりかご」とは、熊本県熊本市にある民間病院の慈恵病院が設置した赤ちゃんポストの名称です。
様々な事業により育てることができなくなった新生児を、親が匿名で特別養子縁組をするための施設、およびそのシステムの日本における通称を赤ちゃんポストと呼んでいます。

外国でもこのシステムを採用している国や地域は多く存在し、ドイツでは100箇所、パキスタンでは300箇所以上存在します。
日本で赤ちゃんポストを採用しているのは、慈恵病院が唯一です。

2007年5月10日、当時の慈恵病院の院長だった蓮田太二(はすだたいじ)氏は、熊本県内で乳児の置き去りや遺棄事件が相次いだことをきっかけに「こうのとりのゆりかご」設置しました。

「涙が出ました、なんで助けられなかったのかと。自分はただ傍観者にすぎなかったんじゃないかと。」

世間からは、“子捨ての助長になる、出自がわからないのは問題だ。” など多くの反発や、当時の安倍首相も「大変抵抗を感じる」と懸念を示す中、熊本市長の協力による設置が許可されました。

開設から15年たった2022年現在、これまでに預けられた人数は161人にのぼります。
預けられる子の数は減少傾向にあり、昨年の預け入れは過去最少の2人でした。

こうのとりのゆりかご – 熊本市|慈恵病院

蓮田院長の著書「ゆりかごにそっと」

「このとりのゆりかご」を創設した蓮田太二(はすだたいじ)氏は、2020年10月25日に急性心筋梗塞で亡くなっています。

あらゆるバッシングや危機に耐えながらも、160人以上の小さな命を救ってきた産婦人科医の生前に残した著書があります。

365日24時間体制で行き場を失い孤立出産に追い込まれている多くの女性の相談にのり、サポートしてきたこと。
やむなく「こうのとりのゆりかご」に置かれた赤ちゃんを、生命の危機から救うための医療体制を常に準備してきたこと。
その赤ちゃんの親が現れなかった場合には、赤ちゃんの幸福を考え、赤ちゃんを愛してくれる里親を探し、その里親のサポートをも行ってきたこと。

このすべての活動が、慈恵病院という一医療法人の献身的努力によって支えられてきました。
ご興味がある方は是非読んでみてください。

最後にANNの取材動画です。約25分ありますのでお時間のある方はぜひご覧ください。

YouTube 告白~僕は「ゆりかご」に預けられた【テレメンタリー2022】【KAB 熊本朝日放送】
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